2011年07月02日

武士の家計簿

武士の家計簿





 はっきり言おう!
 面白くなかった。

 監督も、シナリオライターも、何も理解してない。
 時代考証も無茶苦茶だったけれど、
 それより腹立たしいのは、原作を全く理解してないところ。
 てか、原作、読んでないでしょ!

 主人公である、金沢藩・猪山家(70石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀19匁。
 しかし、家来の草履取りの給金は、銀83匁と月々50文の小遣い。
 この差を、なぜ映像にしない?
 ここが一番面白い事実なのに、なぜシナリオにしなかった?

 シナリオライターは、無能すぎるだろ!

 草履取りは、この他に年3回の御祝儀をもらい、
 外出するたびに15文の駄賃(チップ)をもらっていました。
 外出は、2日に1回くらいありましたから、
 そうとうの金額をもらっていたことになります。
 しかも衣食住は保障されていました。
 つまり、家来の草履取りの収入は、当主の10倍くらいあったわけです。

 ここをどうして描かなかった?

 私が、ライターなら、主人公は「草履とり」にします。
 そして「踊る大捜査線」ふうに作りますよ!
 武士達は、どうして草履取りより貧乏だったか?
 そこに焦点をあてなきゃ、駄目でしょ!





 どうして70石どりの武士の当主が、草履取りより貧乏だったか?
 給料の大半を「身分費用」に使っていたのです。
 自分の家来に小遣いをわたしたし、
 来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていました。
 つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。
 さらに辻番にも金品をわたしていた。
 武士で御座いと威張る費用が必要だった。


 また武士には、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。
 節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三。
 これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。
 ここを、どうして描かなかったのだろう?
 シナリオライターは、無能すぎる。


「江戸時代は、圧倒的な勝ち組を作らない社会であった。武士たちは、威張っていますが、家来草履取りの給料より少ない収入でいる。幕末の日本に百姓一揆が、大発生していますが、百姓たちは絶対に武士にとってかわって政権を奪おうとしなかった理由が、ここにあります」

 どうして、ここをテーマにしなかった?


 もし、どうしても主人公を武士側にもってきたかったなら、
 江戸時代の武士たちが、トレーダーであった事実に、なぜ目をつけなかった?

 猪山家の家禄は70石と切米50俵です。金沢藩の1俵は5斗なので、合計95石。このうち税収が42石。42石うち屋敷に運んだ米が8石。家来含めて8人家族だったので8石だけ、屋敷に運び、のこりの34石を銀に両替しています。この他に拝料金を8両もらっていました。つまり、金・銀で給料をもらっていたのですが、金銀では買い物が出来なかったのですね。銭に両替しなければならない。で、FXをやっていたわけです。あと、米の換金レートにも敏感に対応しなければ、損をするので、江戸時代の武士たちは、意外にことに、みんなトレーダーであったわけです。

 このへんを焦点にあてて、どうして映画をつくらなかった?
posted by 風 at 01:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

黒沢明監督の『生きる』という映画

 黒沢明監督の『生きる』という映画が、あります。
 それは、こんな御話しです。

 癌を宣告され、死を目前にした男がいました。男は、死を前にして、残された短い人生を精一杯、有意義に生きようとしました。具体的に言えば、酒を飲み、女と遊び、歌って踊るといった享楽的な生活をしたのです。

 だれだって、そうです。自分の命が、幾日しかないと解ってたら、老後のためにあくせく働きません。将来のために蓄えなどしません。残された日々に、やりたい事をしたくなるものです。『生きる』の主人公に限らず、誰だって享楽的な生活を送りたくなるものです。

 しかし、『生きる』の主人公は、それでは、もの足りなかった。何も満たされる事がなかった。享楽的な生活が、『生きる』こととは思えなかった。『生きる』とは、そういう事ではないと思った・・・。黒沢明監督の『生きる』という映画は、ここで終っていました。いや、正確に言えば、主人公が物語の途中で死んでしまっていたのです。

 主人公が、物語の途中で死んでしまう事は、およそ考えられない事です。主人公は、感動的なラストシーンまで登場してこそ主人公と言えるからです。しかし、黒沢明監督は、あえて『生きる』の主人公を物語の途中で死なせてしまった・・・。しかし、天才黒沢明監督は、死んだ後にも映画の中に、主人公を登場させつづけたのです。

 死んだ後に登場し続けたといっても、幽霊になって現われたと言うわけではありません。黒沢明監督は、そんなきわもの映画を撮るような人ではありません。『生きる』の主人公は、幽霊としてではなく、人々の記憶として登場したのです。

 『生きる』という映画は、前編と後編に分れています。前編は、主人公が、癌を宣告され、享楽的な生活をしたが、何も満たされず、悩んだあげく、『生きる』事を決意する場面で終っています。そして、後編は、なんと主人公の葬式シーンです。主人公が死んでしまった後の物語です。葬式に集まった人々は、故人の『生きざま』をしのび、故人が、いかに『生きる』ことに情熱をあげてきたか語る物語です。

 私は、この『生きる』という映画を見た時、涙を止める事ができませんでした。それは、ただ単に映画に感動したと言う事ではなく、本当の意味で『生きる』と言うことを知ることができたからです。『生きる』とは、どういうことでしょうか? 『生きる』の主人公は、どのように『生きる』ことを決意したのでしょうか? その問題を解く鍵は、『生きる』という映画の後編部分にあります。

 『生きる』の後編部分が、主人公の葬式シーンである事は、既に述べました。生物学的に言えば、主人公は、この世には存在していないのです。しかし、主人公は、立派に生きていました。映画の中では、輝かしいくらいに生きていました。生物学的には生きていませんでしたが、人々の記憶の中に生きていました。そうです! 『生きる』という事は、必ずしも生物学的に『生きる』こととは限らないのです。人の心の中に『生きる』ことだって、ありうるのです。

 『生きる』の主人公は、死を宣告された時、最初は、享楽的な生活にふけりました。しかし、それでは、何も満たされる事はなかった。享楽的な生活とは、生物学的な満足を満たす生活と言ってもいいかもしれません。しかし、『生きる』の主人公は、それだけでは、何も満たされなかった・・・。それで、人の心の中に『生きる』ことを決意したのです。

 享楽的な人生を送る生活は、『生きる』とは言えない!
 自分だけが満足する生活は、『生きる』とは言えない!
 機械のように、ただ、事務的な生活は、『生きる』とは言えない!

 それらは、『生きる』とは言えない。
 俺は生きていたのではない、死んでいたんだ!
 今の今まで死んでいたんだ!
 生きるぞ、これから本当に『生きる』んだ!

 『生きる』という言葉の裏には、二つの側面があります。
 一つは生物学的意味での『生きる』ということ。
 そして、もう一つは社会的意味での『生きる』ということ。
 つまり、人々の心の中に『生きる』と言うことです。

 人は、生物である限り、いつか死にます。誰だって、生物学的な死を迎える時がきます。問題は、その後です。『生きる』の主人公のように、人の心に生き続けるか、全く死んでしまうかです。日本には、生物学的に生きている人たちが一億人もいますが、人の心の中に生き続けることを意識している人は、いったい何人いるでしょうか?

 良い悪いは別です。昔に比べれば、今の人たちの方が、遥かに享楽的な生活を送っているわけですし、他人のためよりも自分のために生きている人たちが多いことは確かです。つまり、人の心の中に生き続けようと思わない人たちが多いわけです。そして、本当に、それが幸せならば、それはそれでいいわけです。けれど、本当に、それで、皆が皆、満足しているのでしょうか? 『生きる』の主人公のように、何も満たされないでいるのでは、ないでしょうか?

 一人旅をしていて、こんな思いをした事はありませんか? 景色は素晴らしい、料理はうまい、宿は素敵だ、温泉もいい湯だ、でも、何か足りない。何か満たされない。いったい、それは何だろう? 全てが満たされた旅の中に、何か足りないと感じたことは、ありませんか? ふれあいを求めて旅する旅人は、どんなに物質的に恵まれた旅を送っても不満が残るものです。それは、享楽的な生活に満たされない人の悩みに似ているかもしれません。

 ふれあいを求めて旅する旅人は、旅人に対して、とても優しい心をもっています。本来、他人である見知らぬ旅人に、とても親切です。これは、人の心に生き続けることと言えるかもしれません。

 『生きる』の主人公のように、「人の心に生き続ける」ということは、他人に対して優しい心をもつという事でもあります。優しい心がなければ、人の心に生き続けるなんて、不可能だからです。誤解のないように付加えておけば、私は、道徳論で「優しい心」と言ってるのではありません。

 人は、一人では生きていけません。もちろん例外はありますが、多くの人たちは、ふれあいを求めて生きているはずです。たまに、自分だけの世界の中に生き続ける人がいますが、人間というものは、とても弱い存在です。自己満足の世界だけに満足して死ねる、そんな人は、そう多くはないはずです。享楽的な生活だけに満足できる人は、そう多くはないはずです。「いや、満足できる」と、仮に思ってる人がいたとしても、明日までしか命がないと宣告たれた場合、本当に満足して死ねるものだろうか・・・?

 死を迎えた人間が、どんなに贅沢をしても、どんなに享楽的な生活を送っても満たされることはありません。しかし、社会的な意味で『生きる』ことが、できた場合、生物学的な意味での死を克服できるのではないでしょうか?

 人は、誰でも何時かは死ぬ運命にあります。生物学的な死を迎える時がきます。問題は、一人淋しく死んでいくか、大勢の人たちの心に生き続けていくかです。どちらを選ぶかは、その人の人生観に及ぶことですから、私には何も言えませんが、少なくとも私は、「人の心に生き続ける」人生を選びたいと思っています。そして、「人の心に生き続ける」旅をしたいと思っています。


 自分一人だけで美味しいものを食べ、自己満足の世界に浸るより、みんなで食べたい、みんなに知らせたい、みんなに御馳走したい! そんな気持ちで、旅をしたいと思っています。
posted by 風 at 20:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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